takatok0の生活

ただのエッセイです。@takatok0r6s

映画においての視点と装置

何か作品を観る読む聴くときに1つの見方として個人的に面白いと考えてるものが「視点」と「装置」。

言葉だけではぼんやりしてて何が面白いのか自分でもよく分からないのでいつも通り見切り発車して考えていく。

何かを考えるとき僕は基本的には見切り発車してる。何かタイトルつけとけば考えるでしょうと。ふわっとしたことを綴りたいと思う。

 
視点

何か格好よく視点や装置とか書いたけど、そんなに大したことではない。

作品はカメラで恣意的に切り取られたものの集合体みたいな感じで考えながら観る。

 

そもそも何か作品を求めるときというのは、リアルと一線を引きたいときが多いように感じる。

物語に入り込んだりしたいから消費する。

 

ただ実際は物語といっても製作者が見せたいシーンを切り取ったものを僕らは眺めてるだけ。

今は亡き今敏さんという、アニメーション監督はインタビューでアニメーション表現について「実写よりも、単純化、省略されて情報量が少ない分、意図のない物もまったく描かれていないので、作り手側の意図が非常に効率的に伝達される。」という風に話していました。

確かにアニメーションは描いたものしか僕らは観ることができない。

要するに描く、描かないという取捨選択の上必要最低限の監督の意図したものを我々は観ている。

ただ、これはアニメーションだけではなく、実写の映画でも言える部分があります。

 

実写の映画はカメラでキャラクターをどう写すかという取捨選択が行われてるのです。

 

例えば、チャーリーチャップリン監督の『街の灯』の主人公の浮浪者とパトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』の主人公の覗き魔、この二人はどちらも同じくらい変人ですが、見終わったあとの感じかたは全く逆です。それはカメラの切り取り方にも違いがあるからだと思うので紹介します。

 

ここからチャーリーチャップリン監督の『街の灯』、パトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』という映画作品のネタバレがあるので注意してください。

 

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街の灯はとても簡単に書くと、浮浪者役のチャップリンが目の見えない盲目の美女に恋をして、お金持ちの友人を騙してお金をもらい、そのお金で盲目の美女の目を治す。ただ、チャップリンは捕まってしまって…。といった作品です。

 

少し話がそれますが、当時は無声映画ではなく、有声映画を作る技術はあったものこの映画は字幕を使っていました。ただこの作品ではすべての台詞を字幕に起こすのではなく、所々の重要な台詞のみ暗幕にし字幕で起こしてました。勝手な解釈ですが、当時は全て字に起こすと観てる側が疲れてしまったんじゃないかなと想像してます。今観ると余白(台詞が字幕に起こされてない部分)を想像したりできて、観る側の考える部分にもなってとても面白いと思います。

 

パトリス・ルコント監督の『仕立て屋の恋』は主人公は服の仕立て屋です。ただ、隣のマンションの部屋に住む女性の覗き魔です。そして、家の近くで若い女性が殺される事件があり犯人だと疑われる話です。がっつりネタバレを書くと、犯人は隣のマンションの覗かれていた女性とその彼氏でした。それを主人公は目撃していましたが、何か交渉をするわけでもなく、警察には黙秘し続ける…。結局犯人に仕立てられてしまいます。

 

 

この文だけではどちらも気味が悪い人間に見えます。しかし、実際映画を観るとチャップリンはご存知かとは思いますが、パントマイムを基本とする動きをしているためコメディに映り笑えてくる人間として映ります。一方、ミシェル・ブラン演じる覗き魔はただただ不気味に映ります。

 

それはカメラに大きな違いがあるからだと思いました。

チャップリンは体全体でパントマイム的な演技をするため全身を写す描写が非常に多かったです。それとは逆にミシェル・ブランは顔の半分だけだったり、目だけという風に顔の一部分だけを写す描写が多かったです。

どうしても観る側は顔の一部分だけを写されると彼は何かしてそう、やりそうと疑いを持った目で見てしまうのです。

実際は窃盗をし人の金で美女に奉仕するチャップリンの方が美女の殺人を黙って見逃し交渉材料にもしないミシェル・ブランと比べて人としては間違ってる行動だと考えることができます。

勿論これに関しては人によって差異があるかとは思います。ただ多くの人がカメラの演出によって逆に考えさせられてしまうのではないでしょうか。

このようにカメラというのは観る側に与える印象を大きく変えるのです。

 

カメラの視点は一人称なのか、三人称なのかでも意味は全く違います。マーティン・スコセッシの『沈黙』では日本の時代劇のようなシーンが多いです。しかし、空から人を映す場面がありました。日本の時代劇で地面の方から空を仰ぐようなシーンは観たことがありましたが、あまり空から見下ろすようなシーンは観たことがありません。度々出てくるので個人的には神の視点なのかなと考えました。沈黙の大きなテーマとして神がいるのかという点がありましたのでそういった意味でも面白い見方に繋がるかと思います。このようにカメラの視点を考えることで新たに映画のメッセージ性を考える上での材料が一つ増えるのではないかと最近思ったりしてます。とても当たり前のことかもしれませんが、個人的にはなるほどと思えたので。

 

次は装置ですけど、当分書かなさそうなので、一旦切ります。

スタンドバイミーのゴードンが考えた物語『デブのパイ食い競争』は物語において、ゴードンの心理描写だけでなく、後半へと移行するスイッチの役割をしているということを詳しく書こうと思ってます。

ではでは。