脳内のめも。
タイトルに色々といれると面倒なことになりそうなので入れてません。
あと、書き終わったあとに読みなおしたんですけど、支離滅裂です。
北条裕子の『美しい顔』盗作問題について個人的言及。
まず、今この作品を覚えている人はいるのだろうか。
そして、覚えている人のほとんどは盗作した作品だと印象付いてる人はとても多いと思う。
これから書くことは文章として書くのはあまり良くないというのはわかってます。
あくまで個人の意見ですので色々とご勘弁を。
考えをまとめてるだけですので、お許しを。
『当事者論』と『メディアについて』です。
『美しい顔』の問題意識は明らかに震災というより、「美しい顔」によるメディアや周囲を描写したハラスメントの話だと思いました。
そして、その題材を扱う際の環境として用意されたのが震災なだけです。なだけですと書くと怒られそうですが、震災関係ないじゃんと読んだ人なら思うはずです。
盗作に関しては震災の描写が他の著者が記録した被災者の声をそのまま引用していたわけです。
そして、震災を踏みにじってるなどと非難される結果となったのです。
実際、北条さんは被災地へ行ったことがなかったようですが。
確かになぜ3.11を扱っていたのかはわかりません。なんなら北条さんはあまりそこには興味がないように感じました。
ただ、それであのような報道のされかたや非難はおかしかったのではないかと思います。
ここで個人的な意見として
・震災について当事者以外が語ってはいけないというのは本当に正しいのか。
・そもそも『美しい顔』は震災についての作品なのか。
これらに対してノーだと考えています。
2011年からまだたった7年しか過ぎていません。
それなのにあまりにも語られていないような気がします。
少し前に起きたサンチャイルド撤去について覚えている人はいますか?
記憶や記録というのはとても難しいものだなと僕は最近気がつきました。
簡単に書くと記録をすると人は記憶しないということです。人はそのデータ的な記録しか思い出さなくなるのです。
果たしてそれは記憶として正しいのかという話です。
ここで先に書いときますと、そういった記憶の装置として文学とかで語られるのは良いことなのではないかと思っています。
一度話をずらします。
以前、こちらの配信でhttp://nico.ms/lv313626314?cp_webto=share_others_androidapp
こちらの配信を観たのですが、ウクライナにあるチェルノブイリ博物館には文字としてその展覧物の紹介はせず現地のガイドが話して説明するようです。
日本でも美術館では行われていますが、きっと文脈は全く違うと思います。
要するに文字として説明が足りない補足としての役割が大きいです。
恐らく日本のこういった災害の記念館ではこのようなことはされていないと思います。
記憶する、後生に伝えるというのはなんなのか。文字で◯◯人がと伝えることが記憶なのか。この辺りはもった考えた方が良いのではないのかといったことを最近少し考えたりしていました。
そこで、この『美しい顔』です。
サンチャイルド撤去もそうなのですが、震災を語ることをタブーにするのは誰にとって良いのでしょうか。
僕はヤノベケンジさんが後の会見でお話しされていた、「しがみついてでも福島に向き合っていきます。私が取りこぼしてしまってしまった声を聞き、何ができるか考え、議論を続けていきたい」
要するに、芸術家が福島の作品を作れなくなった事例にならないようにしなければという話をされていました。
あのときに不謹慎だと口だけで文句をいっていた人らは無責任すぎると思います。
SNSが蔓延るなか、「無責任な発言」が力を持つことは本当に良くないのではないでしょうか。
軽薄な意見がマスになったところで記憶されないのであればどうでもいいですよ。
そして、当事者以外は語れない風潮。
こういうのに凄くうんざりしてます。
僕は僕なりに責任をもってこういったことを書いています。
と、書きながらどこにこれ公開するんだ?とか、思っていますが。
さて、美しい顔に戻ります。
まずこちらの作品は講談社が出した声明
「今回の問題は参考文献の未表示、および本作中の被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません。」
こちらの通りだと思います。
作品を読まずに批判していた人たちは恥じた方が良い。が、もうわすれているのでしょう。
なんかそういうのが僕は最近きっついなと思っています。
これは色んなことに言えると思っています。
糞みたいな愚痴で終わりました。
ここまで読まれたかた、すみません。
なんかもっと書きたいんですけど、また今度。